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ホテルで一休みした後、専用バスで市内観光に出かけた。現地ガイドのカマラ・シラーは大変感じの良い青年で、彼の明快な英語の説明を中川氏が私たちに通訳してくれる。ドライバーのアブドーラは陽気な大男で、車を運転しながらも絶えず歌を口ずさんでいた。 大統領官邸は、フランス領時代総督邸だったという白亜の立派な建物で、門の前には真紅のマントをまとった衛兵が2人不動の姿勢で立ち、門の中には優雅なかんむり鶴が歩き回っているのが見られた。国立博物館には各部族の様々な仮面や木彫りの人形、呪術に使われたという品などが展示されていた。民芸村には観光客相手の染め物や織物、象牙や木彫りの彫刻、皮製品などが沢山並び活気に溢れていた。イスラムの立派な大聖堂など見たあと15分も走ると、まばらに土の家の集落が見られるような郊外であった。
船着き場の左手は緑の樹木の中に、フランス統治時代の面影を止どめた赤い屋根の建物が並び、路地裏の塀の上からは、濃い赤のブーゲンビリアが垂れ下がっていて美しかった。 その先の“奴隷の家”は分厚い壁に囲まれて、見るからに頑丈そうな造りであった。 「このような家はオランダが占領した時代に作られ、ゴレ島に5つあった。ここには118人の奴隷が、狭い1部屋に15人から20人くらいずつ、足を鎖でつながれて入れられ、1日1回トイレに行く時だけ鎖の鍵を外されていた……」 鉄格子の小さな高窓があるだけの真暗い部屋だった。私たちはカマラの説明を聞きながら、 「こんな部屋に、よくもまあ……」と、声を詰まらせた。 想像するだに苛酷な奴隷たちの状況であった。家族ぐるみで連れられてきても、別々の部屋に入れられ、父親は北米に、母親は南米にと、ばらばらに売られていき、子どもは番号で呼ばれ主人の名前をつけられたという。体重を計った場所があった。男の奴隷は65キロ以下ではよい値に売れないので、65キロの体重になるまで食べさせられた。 「奴隷たちの食事を作るのは少女たちの仕事で、彼女たちは鎖でつながれはしなかった……」 私たちに説明して行くカマラはあくまでも淡々として、思いなしか無表情であった。 馬蹄形の階段の上は、下の部屋とは対照的に明るく広々としていて、バルコニーに出てみれば海の風が心地よく、いままでの悲痛な気持ちから解放されほっとした。海に向って大砲が据え付けられていたという要塞が見えた。地獄のような奴隷の苦しみをよそに、白人達は快適な生活の中にあって、良心の呵責はなかったのだろうか。人種差別の怖さをまざまざと感じた。 階段の下の暗い廊下の突き当たりに、細長い額縁に入れたように海が見えた。 「ここに『帰らざる戸口』と書いてありますね」 その戸口の壁の上に書いてある文を、中川氏が声を上げて読んでくれた。この戸口まで潮が満ちてくると船が横付けにされて、奴隷たちが鎖につながれたまま、ここから長い航海に旅立ったのである。逃げようとして海に飛び込んだ者は、見張りに銃で打ち殺された。それを逃れても海の中には恐ろしい人食い鮫がいて、結局逃げ延びることは出来なかったという。2000万人もの奴隷が拉致され、600万人もの人々が死んでいったという。あの「ルーツ」のクンタ・キンテも、ここからアメリカへの「帰らざる旅」に出て行ったのだろうか。 ┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬次回更新は6月13日(火)┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬
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