(済南の風通信 改題)  第101回(9月号)




    青 柿 庵 を め ぐ る 考 察  
            文:田 端 克 敏  絵:田 端 道 子

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 この項、100回を越えた今回から改題して「青柿庵日記」とした。

 「青柿庵」とは私の草屋の庵号である。「セイシアン」と読む。

 私の教員生活のスタートは伊豆大島であった。大島は黒潮と御神火の煙が交錯する仙境で、元町を襲った大火以前はあんこ姿の老女若女がのんびりと行きかい、家々の入り口には鍵などかけたことがないという仙境だった。夜這いの風習もしっかりとあった。

 3年後五日市高校に転じた。ここも東京とは名ばかりの秘境、山と清流を擁する盆地のたたずまいが私の故郷に似ていると一目で気に入った。私は秋川が屈曲する辺に建つ教職員住宅の一室に収まった。

 その夏結婚、翌年の夏には長女が生まれる。長女誕生の後を追うようにして私の母が九州相良・人吉の地を整理して上京してくる。

 いきなり大所帯となって狭い教員住宅(6畳、4畳半の2K)に住まうのはもはや不可能と思い悩んでいたころ、何度かしぶとく顔を見せていた建築会社の勧誘員が「近くに土地を手放す話がありますよ」とけしかける。薄給に当時高金利だった銀行融資を加えて五日市・高尾の寒村に土地を求め、ベニヤ張りの草屋を建てた。それからさらに二人の愚息が生まれ、6人家族としてそこで暮らすこととなる。短期間ながら最晩年の妻の母も同居していた時期があった。
 

 その土地には二階建ての住まい部分を差し引いてもなお余裕があった。そこに私は手当たり次第に雑木や草花を植え、木々の芽吹きに安らぎ花を愛でた。

 そんな中に、柿の幼木が一本あった。貰ったものだか買ったものだか今ではとんと記憶にない。その幼木がようやく若木となり見上げるばかりになって、新葉に毛虫が多発しはじめ、初めてピンポン玉ほどまでに大きくなった実がころころと落ちた。

(イラスト:飛鳥の夢<蘇我入鹿首塚>)
 
 翌年はまめに殺虫剤を撒いたおかげで毛虫の発生を防ぐことはできたが、どういうわけかやはり実は青いまま次々に落ちてしまった。それがこの木の生まれ持った体質だったのか、何か細菌にでも感染していたのかはわからない。

 普通ならばこんな駄木、と切り捨ててしまうところ、このひ弱な柿の木と、生来病弱にして狷介な私の性が二重写しとなって私はこの木に奇妙な愛着を持ってしまった。そこで私は木を切る代わりに私の草屋を「青柿庵」と名づけ、書を書き文をひねる友垣としたのであった。
 
 97年に一大転機が訪れる。かねてよりの宿願を果たすべく、私も妻も55歳で早期退職する。共に海外での日本語教育に携わるためであった。その頃には私と妻の母もすでに身罷り、子どもたちも成長してそれぞれの地に散っており、私たちはまた二人だけの気軽な身となっていた。

 しかし国際線発着の成田空港まで、五日市からではあまりに遠い(電車を乗り継いで3〜4時間はかかる)し、いつ帰ってくるかわからない風任せの人生ではその間この草屋を見守ってくれる人もない。

 そこでさまざまな思いがいっぱい詰まったこの家と土地を思い切って売り払い、代わりに成田からそう離れていない千葉・習志野に小さな中古マンションの一室を買った。荷物を置くだけで精一杯のこのマンション、それはあくまでも海外生活の拠点となりまた一時帰国する際の止まり木となる程度のものであった。

 私たちの海外での日本語教育のボランティアは、当初数年という予想をはるかに超えて足掛け13年にも及び、その間3か国延べ9つの大学を駆け巡ってしまった。その間、年1、2回帰国して次の準備に備えることを繰り返していたわけで、築30年の狭いオンボロマンションもなかなかに頼りがいがあった。

 08年の冬、山東省済南で私は言葉がもつれ一時帰国して病院に駆け込む。MRI撮影による診断の結果脳梗塞と判明。医者から再渡航ストップを言い渡される。その2か月前、妻も左膝を痛めて歩けなくなり、帰国して病院で骨壊死の断を下されて手術する破目となって二人揃って急遽海外でのボランティア活動を断念することとなった。

(イラスト:中秋名月)

 それから2年、妻の膝も癒え、さらに癌まで患った私の病状もなんとか治まり、普段の生活ができるようになって心身ともに落ち着いてくる。もう海外へ行くこともなくなったのだ、と思いを整理しあらためて見回してみると、機能一辺倒だったこのマンションもコンクリートジャングルの只中にあって情緒に乏しい。田舎生まれ・育ちの私にとって身辺に山野や川がないのはなんとも寂しい。そう思い始めると矢も楯もたまらずまたぞろ引越しの虫が騒ぎはじめる。

 旧来の友人から「家を貸してもいいという人がいる」と一報が入ったのはちょうどそんな折であった。所は八王子の山の上、森もあれば小さいながら高尾山を源とする清流も流れている、願ってもない条件で、私たちはばたばたと昨秋引っ越してしまった。

 ここは急坂という隘路を別にすれば瀟洒な二階建て。庭にはさまざまの木が植わり、季節の変わり目を告げる花々が咲き果樹がそれぞれの実を成らせる。そして玄関脇にはかなり大きくなった柿の木まで一本ある。

 ところが越してきたときにはわからなかったが、この柿、一冬を越し梅雨のさ中ごろから小さい実が付き始めると次々と落果して急坂を転げ落ちていくのである。これはまさに五日市時代のあの青柿と瓜二つではないか。不思議なことだが、一度は捨てた私の「青柿庵」の心情がここにも受け継がれていたというのだろうか。

 庵号は古来中国・日本の文人たちが好んでつけたものである。唐の李商隠の獺祭魚庵、それにちなんでつけたとおぼしき正岡子規の獺祭書屋、良寛の五合庵や芭蕉の芭蕉庵、利休の不審庵などはよく人に知られるところである。江戸中期以降より金持ちの別荘に盛んにつけられたのは押して知るべしだが、そのころから蕎麦屋に庵号をつけることが流行りはじめたのも考えてみればおもしろい。

 私が「青柿庵」と号したのは決して自らの風流や趣味を衒ってのことではない。私は幼少からたしなんだ書を一生涯の生業とするに当たって決意したことがある。

 書は文字を筆で表す墨線の芸術である。その墨線には人格が宿る。人格を高めるには故人の教えに触れ、見聞を広め思索を高めていくしかない。この短い人生を山登りに例えるなら、艱難辛苦、頂上に辿りついたとして果たして目指すものがそこにあるかどうかという世界である。

 私の目指すところは「書家」でなく「文人」である。古代より活躍した「ほんまもん」の文人がその目標である。ところが七十を目前とするところまで来て私はいまだ未熟にして転がり落ちる「青柿」でしかない。

 思えば雅号(書・画家がつけるいわゆるペンネーム)を「推雲」と自ら名乗りはじめたのはまだ尻の青かった書学生(東京学芸大学書道科)のころであった。「推」には「押す・推し量る」の意味があり、これから辿るであろう五里霧中のかなた、あるかないかも定かでない書の世界を「雲」に見立て、「ぐずぐずとした雲の中に手を突っ込んで探る」という意味を含ませた。
 
 さあ、これから青柿庵推雲はおのれにいかなる修行を課すであろうか。日々変化あるところ成長の兆しもある、と信じてはいるが。
               「青柿庵主」(井谷五雲刻)



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